2015年2月15日日曜日

1/24 トラバント601 (サイド・ストーリー)

 1985年、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカの推進が呼び水となり、ハンガリー、ポーランドにおける民主化への動きが劇的に加速しました。そこから198911月のベルリンの壁崩壊へと続く流れについては、この作品の紹介の中でも触れてきたところです。
私がかつて勤務していたチェコ共和国においては、ワルシャワ条約機構軍の戦車が首都に軍事介入した1968年の「プラハの春」の記憶がいささかも薄れない中、ベルリンの壁崩壊からわずか一週間後の19891117日、一滴の血も流すことなくその柔らかな生地に例えられた「ビロード革命」により、約50年に及ぶ共産支配からの民主化を達成するのです。
そして、その翌年の1990512日、偉大なる作曲家スメタナの命日にスメタナホール(Obecni Dum)において幕を開ける「プラハの春音楽祭」(Plazske Jaro)において、1948年の亡命以来チェコスロバキアを離れていた名指揮者クーベリックがハヴェル大統領の強い要請により帰国、スメタナの代表曲である「我が祖国」(日本では第2楽章のモルダウがつとに有名)の指揮を振るのです。チェコフィルの演奏は、長きにわたり抑圧されてきたチェコスロバキアの人々の琴線に触れないはずもなく、国民が等しく涙したと言われる瞬間です。とうとうと流れるモルダウ川(チェコ語ではヴルタヴァ川)にかかるカレル橋から見上げるプラハ城とその城下の街並みは、世界でも屈指の美しさでしょう。チェコを離れて以降も何度となく、512日の音楽祭初日を目指してプラハを訪れたことは、私の生涯にどれほどの豊かさを与えてくれたことか。所属する会社の現地スタッフが乗っていたトラバントを思い出す度に、そんな光景が脳裏に今も鮮やかに蘇るのです。
 

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