2016年4月21日木曜日

海外駐在でもサラリーマンはサラリーマン

 忙しいのですよ、お仕事が。
 昨日も、朝一番から特急電車に乗ってボローニャまで2時間半、駅から真っ直ぐ向かった先で、お仕事の相手との打ち合わせに2時間半、時間がないので何だかよくわからない中華風のお昼ご飯をかき込むこと15分、すぐさま帰りの電車に乗ってローマまで再び2時間半。
 日本ではスパゲティ・ボロネーズで有名なボローニャ。小さな町ですが、それなりに風情はあるし、グルメの街と人は言います。。。
 でも、そんなの関係ないんです、サラリーマンには。海外駐在とは聞こえはよろしいのでしょうけど、日本のサラリーマンは世界中どこにいても同じです。出張から戻ったらその足でオフィスに行き、お仕事です。くたびれた帰り道に、馴染みの焼鳥屋へ寄ってホッピーの一杯もひっかけられる日本の方がまだなんぼか救われるのかもしれません。
 と、珍しく愚痴ってみたものの、実はボローニャ往復に乗ったのはFrecciargentoという、こんなカッチョ良い特急電車。最高速は250km/hに達します。深いシートにもたれ、車窓に流れるトスカーナ地方の豊かな丘陵地帯を目で楽しんでるうちに、着いてしまいます。
 一生に一度でいいからイタリアを旅してみたい、気ままに電車の旅などできれば最高だろうなぁ。。。そんなふうに憧れている人は、きっと少なくないのでしょう。そう思えば、こんな一介の海外駐在サラリーマンの日常の悲哀も、考えようによっては非常に贅沢なことなのかもしれません。 

2016年4月17日日曜日

1/24 Jaguar Type E (その14)

 全ての窓枠にメタルックをぐるりと貼りつけました。スキルのない私に出来るのは、根気よく作業することだけです。なかなか持続しない集中力を振り絞って手を動かしているうちに、なんとかなってしまうものなのです。

 続いてはワイパー。キットでは、柄の部分がボディに、その上の部分がウィンドースクリーンにくっついた状態で成形されていました。どちらも削り落としてしまいましたので、新規に作る必要が生じました。いろいろ考えた末に、中心に穴を開けた細いアルミ板をコの字に曲げ、真鍮線を差し込みました。
 100円ライターと比べると、サイズをお判りいただけると思いますが、老眼の限界に近いです。これをあと2つ作らなければなりません。

2016年4月12日火曜日

1/24 Jaguar Type E (その13)

 ジャグアーの製作も、いよいよ外装の仕上げという段階なのですけど、その前に立ちはだかる大きな壁が、フルスポーク・ホイール。これが実車の画像です。いったい何本あるのでしょう。

 そして、キットのホイールが下の画像の左側。
 遠目に見ればなんとなく雰囲気はありますが、抜けていません。そこで、裏側から少し削った後に、結構な時間をかけてピンバイスで抜けそうな部分だけやっつけてみたのが右側。更に、陰影をつけてスポークを浮き立たせるため、隙間にスモークで墨入れを施してみたものの、大した効果は上がりませんでした。むしろ、何もしない方が良かったかも。
 さあて、どうしましょう。この繊細なホイールが表現できないことには、どうしても模型っぽさが残ってしまうに違いありません。こりゃ、ハードル高いなぁ。

2016年4月11日月曜日

政宗と支倉

 先日、伊達政宗が400年前にローマに派遣した支倉・慶長遣欧使節のことに触れました。その中で、ローマ法王にも会え、すっかりキリシタン気分で帰国した支倉を待っていたのは禁教令の世の中で、幕府をおそれた主君・政宗に掌を返されるように、非業の最期を遂げたなどと紹介しました。
 ところが、友人の指摘を受けて更にいろいろと調べてみると、史実は随分と異なるようです。少なくとも政宗自身は、帰国した支倉を手厚く迎えたようですので、両者の名誉の為にも追記しておきたくなったのです。
山本周五郎原作「樅(もみ)の木は残った」は、仙台藩家臣の一人である原田甲斐が、幼い藩主の後見人にあたり陰の実権を握る伊達兵部宗勝らとの間で、仙台藩の存続をめぐって引き起こしたいわゆる「伊達騒動」が物語の舞台。
 宗勝は、支倉がローマから帰還した翌年に生まれたのですが、実は政宗が支倉を欧州に派遣したのはキリスト教布教のためではなく、鉄砲に必要な火薬の原料となる貴重な硝石をスペインから買い付けるのが本当の目的だったという説があるのです。事実、支倉を乗せた船はスペイン経由でイタリアに入港していて、その過程で調達ルートも作り、硝石のサンプルも持ち帰ったと。更に、スペインの口添えでローマ法王に会ったのは、イエズス会の宣教師が火薬を日本へ持ち込む運び屋業も兼ねていたからだとも。
 豊臣につくか、徳川につくか(どちらも鉄砲の火薬を喉から手が出るほど欲していた)、はたまた政宗自らが天下を取りに打って出るか。いずれの場合でも、鉄砲の火薬が不可欠だった。宗勝は、政宗から火薬のことを聞いていたのでしょう。宗勝は、藩全体の領土の半分をもらえるとの密約の下に、仙台藩の弱体化を目論む幕府と裏で手を握るのですが、支倉が持ち帰った火薬がスペイン産であることを時の将軍秀忠が知るところになると、「おのれ伊達め」と逆鱗した秀忠は政宗を呼びつけて叱り飛ばします。その翌年、支倉は次男ともども政宗によって処刑されるのですが、どうやらそれは幕府に対する建前であって、実のところは可愛い家臣に涙を呑んで身を引いてもらったというお話だとも言われています。
 さて宗勝と他の伊達家臣たちの軋轢が決定的にものになると、藩存続のために我が身を投げ出して原田甲斐が藩主を斬りつけ、自らもそこで命を落とす、いわゆる伊達騒動へと繋がっていくわけです。
 歴史を紐解くと、それはいつでも人間模様であるし、だからこそ小説やドラマになって後世に生き残るわけですが、翻って、もし支倉があと数年早くスペインから火薬を持って帰国していたら、伊達が徳川をも撃ち落として天下を取り、仙台に幕府が誕生していたかもしれない。ま、ロマンですけどね。

2016年4月9日土曜日

ここは地の果てアルジェリア~♪

 表題の歌のタイトル「カスバの女」をご存知の方は、りっぱなオジさんでしょう。宇多田ヒカルのお母さん藤圭子も唄っていましたね。
 昨日まで出張していたアルジェリアで、どうにか作った午後の合間に旧市街まで足を延ばし、世界遺産でもあるカスバを訪ねてきました。
 小高い丘の斜面に広がる16世紀オスマン帝国時代の密集住宅地です。丘のてっぺんにある警察署でエスコートをお願いすると、若い精悍な警察官が私服に着替えて出て来てくれました。こちらからも連れて行ったボディガードと前後を挟まれる形です。身を寄せ合うように建ち並ぶ古い建物の間、狭く入り組んだ路地を丘の上から海に向かって降りて行くのです。
 途中の茶店で、ミントティを彼らに振る舞うつもりが、逆に奢ってもらっちゃいました。下の写真は茶店からの展望。アルジェの港を見下ろします。

 丘の上に近い方は、こんな家並みが続きます。なるほどいろんな事情を抱えた女性が、遠くパリから足を引きずり或いは舟に乗って、はるばる辿り着いた地の果てを思わせます。
 思いのほか人が少ないなぁとつぶやいていた矢先に、子供たちがわらわらと現れました。カスバの中にある古いモスクが学校になっているのだとか。きゃっきゃとはしゃぐ子供たちは、世界中どこでも可愛いものです。 

 人の数より多いのではないかと思わせるのが、ヌコたち。モロッコもチュニジアも同じですが、地中海に面した北アフリカのマグレブ諸国では、猫は神様に愛される生き物。どんなに貧しい人々も、自分たちの食いぶちからパンを与えたりと、猫を大事に扱います。誰も追いかけたりしないので、猫たちもこちらが近寄っても逃げません。

 さて、カスバを後にして、お楽しみの食事です。クスクスの前に、前菜の盛り合わせと、インド料理のナンを膨らませたようなパンをつまみに、地元のTANGOビールを。なかなか美味しいです。。。と、この国ではホントはお酒はNGなのですが、中には合法的にお酒を出せるレストランもあるのです。ありがたや。

 街にはこんな店がたくさんあります。これは、ナツメヤシの実「デーツ」を乾燥させたもの。そこらじゅうに生えているナツメヤシの樹に、たわわに実っているくらいですから、非常に安価でお手軽なデザート又はおやつとして食べるのだそうです。。。けど、名物と言われる割にはそれほど美味しくない。

2016年4月3日日曜日

1/24 Jaguar Type E (その12)

 適当な布の端切れを切り出して両面テープに貼り付け、金属っぽい適当な塗料で色を付けています。もちろん、あらかじめトレーシングペパーで型紙を作ってからの作業になりました。
 何がしたいかと言うと、ボンネットの裏側には、エンジンの熱をガードする耐熱素材のシートの様なものが貼られているので、それを再現しようというもの。ボンネット自体の変形や、塗装を保護するためなのでしょう。でも、実車の画像の中にはレストアされたものが多いため使われている素材や色は様々で、どれがオリジナルなのか判断する材料がありません。ここでは、それらしい雰囲気が出ればいいことにしましょう。

 最終的には、布地の上から更にネットを貼り付けました。色ムラや、ヨレがありますけど、まあ昔の車ならこんな雰囲気もありかなというレベル。なにしろボンネットがガバっと開く車なので、普段気にしないこんな部分も丸見えになってしまうわけです。
明後日からまた出張です。どうしたって、ちょっとずつしか進みませんけど、今日は頑張ってボディのクリアがけもしました。研ぎ出しをするかどうかは後で考えます。

2016年4月2日土曜日

401年前のサムライ外交官

 ローマから北へ小一時間、チビタベッキアという港町に散歩に出かけた土曜日。港のすぐ脇の海岸沿いには、ミケランジェロ要塞跡がそびえます。
 この町を訪れた理由はただ一つ、支倉常長(はせくら・つねなが)に会うためです。
 1613年、仙台藩主・伊達正宗は、ローマ法王宛の親書を支倉に託し、遣欧使節団をイタリアに派遣します。石巻を出港したサン・ファン・バウチスタ号は実に2年の歳月をかけて、1615年10月18日、チビタベッキア港に到着しました。

 と、その前に、こんなレストランで軽めの昼食。メニューは海産物の前菜、ムール貝の白ワイン煮と、あさりのタリアテッレ。お安かったです。

 支倉は、チビタベッキアの司令官による出迎えを受けると、その足でローマ法王への謁見を許されます。キリスト教を尊重する旨の伊達の親書に応えるように、ローマ元老院は支倉にローマ市民の公民権を与え、いわゆる貴族に名を連ねることを決議しました。いわば、ローマ法王お墨付きの、日本の初代大使となったのです。これが、401年前のお話。去年、400周年を迎えた際は、姉妹都市関係にある石巻からの公式訪問団が訪れるなど、様々な催しが行われました。
 
 港から海岸沿いを10分くらい歩くと、殉教者教会があります。天井には、支倉のフラスコ画が描かれています(支倉はいちばん左)。

 なんともユニークなことに、この教会の聖母マリアは、日本の着物を着ています。世界的にも珍しいのではないでしょうか。

 港の方に戻って、ちょっとだけ海から離れた場所。支倉は海を背にして立っていました。

 羽織袴をまとい、腰には日本刀。そして手には伊達の親書が握られています。ちょっと愛嬌のあるお顔です。
支倉使節団一行は、2年後の1620年に帰国するのですが、実はその頃には幕府によりキリスト教を排除する禁教令が発布されていたのです。そして、何と支倉をローマに派遣した張本人である君主・伊達正宗すら、幕府怖さに支倉を迫害し、死に追いやってしまうのです。無念だったでしょうなぁ。