2016年4月2日土曜日

401年前のサムライ外交官

 ローマから北へ小一時間、チビタベッキアという港町に散歩に出かけた土曜日。港のすぐ脇の海岸沿いには、ミケランジェロ要塞跡がそびえます。
 この町を訪れた理由はただ一つ、支倉常長(はせくら・つねなが)に会うためです。
 1613年、仙台藩主・伊達正宗は、ローマ法王宛の親書を支倉に託し、遣欧使節団をイタリアに派遣します。石巻を出港したサン・ファン・バウチスタ号は実に2年の歳月をかけて、1615年10月18日、チビタベッキア港に到着しました。

 と、その前に、こんなレストランで軽めの昼食。メニューは海産物の前菜、ムール貝の白ワイン煮と、あさりのタリアテッレ。お安かったです。

 支倉は、チビタベッキアの司令官による出迎えを受けると、その足でローマ法王への謁見を許されます。キリスト教を尊重する旨の伊達の親書に応えるように、ローマ元老院は支倉にローマ市民の公民権を与え、いわゆる貴族に名を連ねることを決議しました。いわば、ローマ法王お墨付きの、日本の初代大使となったのです。これが、401年前のお話。去年、400周年を迎えた際は、姉妹都市関係にある石巻からの公式訪問団が訪れるなど、様々な催しが行われました。
 
 港から海岸沿いを10分くらい歩くと、殉教者教会があります。天井には、支倉のフラスコ画が描かれています(支倉はいちばん左)。

 なんともユニークなことに、この教会の聖母マリアは、日本の着物を着ています。世界的にも珍しいのではないでしょうか。

 港の方に戻って、ちょっとだけ海から離れた場所。支倉は海を背にして立っていました。

 羽織袴をまとい、腰には日本刀。そして手には伊達の親書が握られています。ちょっと愛嬌のあるお顔です。
支倉使節団一行は、2年後の1620年に帰国するのですが、実はその頃には幕府によりキリスト教を排除する禁教令が発布されていたのです。そして、何と支倉をローマに派遣した張本人である君主・伊達正宗すら、幕府怖さに支倉を迫害し、死に追いやってしまうのです。無念だったでしょうなぁ。

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