2016年4月11日月曜日

政宗と支倉

 先日、伊達政宗が400年前にローマに派遣した支倉・慶長遣欧使節のことに触れました。その中で、ローマ法王にも会え、すっかりキリシタン気分で帰国した支倉を待っていたのは禁教令の世の中で、幕府をおそれた主君・政宗に掌を返されるように、非業の最期を遂げたなどと紹介しました。
 ところが、友人の指摘を受けて更にいろいろと調べてみると、史実は随分と異なるようです。少なくとも政宗自身は、帰国した支倉を手厚く迎えたようですので、両者の名誉の為にも追記しておきたくなったのです。
山本周五郎原作「樅(もみ)の木は残った」は、仙台藩家臣の一人である原田甲斐が、幼い藩主の後見人にあたり陰の実権を握る伊達兵部宗勝らとの間で、仙台藩の存続をめぐって引き起こしたいわゆる「伊達騒動」が物語の舞台。
 宗勝は、支倉がローマから帰還した翌年に生まれたのですが、実は政宗が支倉を欧州に派遣したのはキリスト教布教のためではなく、鉄砲に必要な火薬の原料となる貴重な硝石をスペインから買い付けるのが本当の目的だったという説があるのです。事実、支倉を乗せた船はスペイン経由でイタリアに入港していて、その過程で調達ルートも作り、硝石のサンプルも持ち帰ったと。更に、スペインの口添えでローマ法王に会ったのは、イエズス会の宣教師が火薬を日本へ持ち込む運び屋業も兼ねていたからだとも。
 豊臣につくか、徳川につくか(どちらも鉄砲の火薬を喉から手が出るほど欲していた)、はたまた政宗自らが天下を取りに打って出るか。いずれの場合でも、鉄砲の火薬が不可欠だった。宗勝は、政宗から火薬のことを聞いていたのでしょう。宗勝は、藩全体の領土の半分をもらえるとの密約の下に、仙台藩の弱体化を目論む幕府と裏で手を握るのですが、支倉が持ち帰った火薬がスペイン産であることを時の将軍秀忠が知るところになると、「おのれ伊達め」と逆鱗した秀忠は政宗を呼びつけて叱り飛ばします。その翌年、支倉は次男ともども政宗によって処刑されるのですが、どうやらそれは幕府に対する建前であって、実のところは可愛い家臣に涙を呑んで身を引いてもらったというお話だとも言われています。
 さて宗勝と他の伊達家臣たちの軋轢が決定的にものになると、藩存続のために我が身を投げ出して原田甲斐が藩主を斬りつけ、自らもそこで命を落とす、いわゆる伊達騒動へと繋がっていくわけです。
 歴史を紐解くと、それはいつでも人間模様であるし、だからこそ小説やドラマになって後世に生き残るわけですが、翻って、もし支倉があと数年早くスペインから火薬を持って帰国していたら、伊達が徳川をも撃ち落として天下を取り、仙台に幕府が誕生していたかもしれない。ま、ロマンですけどね。

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