2015年2月25日水曜日

極めて残念な出来事

 去る19日、サッカー欧州リーグのローマ対フェイエノールト戦を直前に控え、オランダからローマに遠征してきたフェイエノールトのサポーターがスペイン広場で暴れまくり、スペイン階段下の彫刻「舟の噴水」を壊すという事件を起こしました。日本でも大きく報道されたので、ご記憶にも新しいと思います。
 酒に酔い完全に暴徒化したオランダ人の集団は、シュプレヒコールをあげながら噴水に無数の発煙筒、ビール瓶、岩、ゴミなどを投げ入れ、彫刻の一部を壊したばかりでなく、周囲の建物、車、バイクやブティックのショーウィンドーなどにも破壊行為を繰り広げました。かけつけた数十名の警官隊と衝突、火炎瓶などを投げつけ、警官10人に怪我を負わせるという無法ぶりは想像以上で、youtubeにもアップされていますので、関心のある方は見てみてください。
 舟の噴水は、バロックの彫刻家ベルニーニ親子による1629年の作品で、昨年秋に20万ユーロ(約2700万円)をかけて1年がかりの修復を終えたばかり。ローマを訪れる観光客がお目当てに訪れる名所であり、貴重な文化遺産の一つです。110か所に及ぶ傷は、完全な修復が困難とのこと。
 日頃は割りと寛大なイタリア人も、今回ばかりはブチ切れています。レンツィ首相もローマ市長も、逮捕したオランダ人の身柄を本国に返させないため、所持しているパスポートを破り捨てろと駐在オランダ大使に申し入れ、280万ユーロと見積もられる被害総額については、オランダ政府に対しても賠償を求めました(もっとも、オランダ政府も、流石に国民の税金から賠償することはかなわず、拒否しているようですけど)。
 このような暴挙は、サッカー・ファンの一人としても、かつてオランダに3年間暮らしたことのある者としても、文化や歴史遺産を大切に思う普通の人間としても極めて許し難く、ただひたすらに残念で、悲しいニュースでしかありません。

写真は、スペイン広場の近くで撮ったものですが、記事の内容とは関係ありません。
 

2015年2月23日月曜日

1/24 ルノー4L (その1)

 新しいお題は、ルノー4Lです。
 ルノー4といえば、フランス全土で町中を元気に走る郵便局(la poste)の車というイメージが色濃くあります。ただ、あらためて調べてみると、実に偉大な車だったことが解ります。ルノー4の製造期間は19611992年までの31年という長期に及び、生産台数は実に835万台、量産車としてはVWビートル、T型フォードに次いで史上第3位というから驚きです。
 シトロエン2CVに対抗するべく満を持して開発されたこの車、商業的に成功した世界初のハッチバック車であるだけでなく、リアサスの構造が特殊であるため、左右のホイールベース長が4cmも異なるのです。FFだから後輪なんか関係ないもんねということなのでしょうか。
 
 さて、キットは静岡が世界に誇るミニカーのエブロ社製。あらためて箱絵を見ると、アルミ製の豪華フロント・グリルに菱形のエンブレムがオフセットされた4Lの第2世代。1968年以降、74年頃まで生産された型であることが解ります。つまり、私が小学校に入学して卒業するくらいまでの間ということですので、そのくらいの時代考証をもって臨むことになります。
 キットの内容です。部品点数はかなり多く、充実度が伺えます。ボンネット、リアハッチ、両側前方のドアが開閉可能のようです。 

  更に、グリルとおぼしき金属のエッチングパーツと、3種類のデカールが同梱。ご丁寧にも、日本のナンバープレートも認められます。

 ときに、この車が生産された当時のフランスでは、何が起こっていたのでしょうか。1968年には、国家権力の抑圧に反対し自由と平等を掲げた約1千万人の労働者・学生がパリでゼネストを繰り広げた5月革命が起こり、翌1969年にはポンピドゥ・センターで有名なポンピドゥが第19代の大統領に就任。因みに前任は空港の名前となったシャルル・ド・ゴール、後任はジスカール・デスタン。「オー・シャンゼリゼ~♪」の曲もこの年。
 日本に目を移してフランスに関連する出来事といえば、1970年に創刊した雑誌ananがパリ・ジェンヌやルイ・ヴィトンを紹介、71年にはルパン三世のTV放映開始、72年にはベルサイユのばら連載開始、そして75年のエマニエル婦人へと続くのです。

 前作のトラバントに続き、古くて、小さくて、キュートな車が、密かにシリーズ化するのでしょうか。楽しくお付き合いください。

2015年2月21日土曜日

1/24 トラバント (完成編)

 トラバントの完成です。
 実は世界的なインターネットエクスプローラーの障害(ノートンが悪いんですけど)で今朝から焦りまくりましたけど、ようやく復活です。
 
 先ずは、屋根を外したコクピット内部。新聞紙が良い雰囲気。ルームミラーは運転手に向けてややオフセット。

 トランク・リッドを開くプッシュ式のボタンを追加、トランク内にはスペアタイヤが入っています。貼り忘れていたエンブレムも。

 かわってエンジン・ルーム。汚しを施しました。ボンネットにエンブレムを貼りました。ヘッドライトのレンズは欠品のままです(まだ見つかりません。)。あしからず。

 以下は、屋外撮影した全身写真。この車が活躍した年代、雰囲気、キャラクターに合わせて、モノクロ撮影をチョイスしました。ボディには錆の表現をとも思ったものの、この車のボディは紙パルプ混合のファイバー製、錆びないのです(その代り、腐ります)。





古い刑事ドラマにでも出て来そうですね。とてもノスタルジックで、かつ、キュートです。石畳のディスプレイ・ケースに収め、毎日眺めて愛でることにしましょう。
 長らくお付き合いくださり、ありがとうございました。次作も頑張ります。

2015年2月18日水曜日

1/24 トラバント601 (その8)

 めでたく完成で~すと叫ぶ予定でした。が、ここへ来て問題が発生し、寸でのところで足止めをくらっております。
 
 発生した問題というのは、ヘッドライトの左目(画像手前)のレンズが、行方不明になってしまったのです。作業机の上を整理しながら探してみます。見つかったら、屋外で完成写真を撮ることにしましょう。見つからなかったらw。。。そのときは何とかします(でも、これはこれでいいかも)。

ナンバープレートは、現在もなお現役で走っている車両という想定ですから、東西統一後のドイツのプレートです。ベルリンの壁が崩壊した年にちなんだナンバーが洒落てます。旧東ドイツを表すDDRのステッカーは、そのままの方が雰囲気がありますね。

2015年2月15日日曜日

1/24 トラバント601 (サイド・ストーリー)

 1985年、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカの推進が呼び水となり、ハンガリー、ポーランドにおける民主化への動きが劇的に加速しました。そこから198911月のベルリンの壁崩壊へと続く流れについては、この作品の紹介の中でも触れてきたところです。
私がかつて勤務していたチェコ共和国においては、ワルシャワ条約機構軍の戦車が首都に軍事介入した1968年の「プラハの春」の記憶がいささかも薄れない中、ベルリンの壁崩壊からわずか一週間後の19891117日、一滴の血も流すことなくその柔らかな生地に例えられた「ビロード革命」により、約50年に及ぶ共産支配からの民主化を達成するのです。
そして、その翌年の1990512日、偉大なる作曲家スメタナの命日にスメタナホール(Obecni Dum)において幕を開ける「プラハの春音楽祭」(Plazske Jaro)において、1948年の亡命以来チェコスロバキアを離れていた名指揮者クーベリックがハヴェル大統領の強い要請により帰国、スメタナの代表曲である「我が祖国」(日本では第2楽章のモルダウがつとに有名)の指揮を振るのです。チェコフィルの演奏は、長きにわたり抑圧されてきたチェコスロバキアの人々の琴線に触れないはずもなく、国民が等しく涙したと言われる瞬間です。とうとうと流れるモルダウ川(チェコ語ではヴルタヴァ川)にかかるカレル橋から見上げるプラハ城とその城下の街並みは、世界でも屈指の美しさでしょう。チェコを離れて以降も何度となく、512日の音楽祭初日を目指してプラハを訪れたことは、私の生涯にどれほどの豊かさを与えてくれたことか。所属する会社の現地スタッフが乗っていたトラバントを思い出す度に、そんな光景が脳裏に今も鮮やかに蘇るのです。
 

2015年2月14日土曜日

1/24 トラバント601 (その7)

シャシーはどこをどう塗ったらいいのか分からないので、薄いスモークで適当に汚しておきました。いくら30年前の東独とはいえ、道路は割ときちんと舗装されていたはずなので、泥汚れはほとんどつけず、ほどほどにしておきます。
 四輪ともちゃんと回るタイヤの接地面は、ペーパーを当てて艶を消しておきました。

ボディの方は、窓ガラス、ミラーとワイパーを残して、9割がた終了。このキットが他の多くのものと異なる部分は、窓枠のラバーがボディ側ではなくガラス側にあって、ガラスの縁を黒く塗った上で、外側からハメ込む方式となっていることです。いずれにせよガラスを接着してしまうと後戻りできないので、慎重になっています。
 ドアとボディパネルなどの隙間には、いわゆる墨入れというやつを施しました。四輪キットを作っているんだなぁと実感する作業です。

これはオマケ。街中の土産物店で衝動買いした金属製のチンク。1/35くらいでしょうか。ドアも開閉しますし、チョロQ機能付きで15ユーロ。高いんだか安いんだか分かりませんけど、カワイイからまあよし。

2015年2月11日水曜日

1/24 トラバント601 (その6)

今日は、仕事ではないペーパーワークです。
 石畳のテクスチャを並べて紙にプリントし、ディスプレイケースの底に貼り付けようという、手抜きもいいところのジオラマを目論んでいます。
 先ずは一般的な四角い石畳。色温度を少しだけ暖色寄りに調整しました。悪くありません。

今度は扇形のパターン。冬のベルリンは雪が降り、路面は凍結しますから、少しでもタイヤがグリップするよう、ラウンドアバウトや坂道にはこうしたパターンが頻繁にみられます。元々は馬車の車輪幅を想定していると聞いたことがあります。
 こちらもなかなか雰囲気があって、迷ってしまいます。

さて次に、当時実際にベルリンで発行されていた新聞NEUES DEUTSCHLANDの画像を拾ってきて、見開き状に縮尺印刷しました。プリントした紙の裏側から水を吹きかけて、しわを寄せています。
 新聞の文字は細かすぎて見えませんけど、日付は1989年5月8日。前日に投票が行われた東ドイツ地方選挙の開票結果を報じています。社会主義統一党による不正行為に抗議する民衆のデモ活動が活発化し、これから半年後の同年11月10日、ベルリンの壁崩壊へと繋がっていくのです。

見開きを閉じた状態から無造作に(しかし重なりが見えるよう計画的に)四つ折りに畳んで、助手席にポンと置きました。ぐっとリアリティが増したような気がします。後部座席にも何か、パンなどを入れた紙袋とか、ひざ掛けの毛布などを置いてみたくなります。

2015年2月8日日曜日

1/24 トラバント601 (その5)

 今回のトラバントは、白いボディに黄緑のルーフというツートンカラーに決めました。先ずはルーフをこれでもかというくらい厚塗りします。表面は既にてろんとして、なんかイヤらしい艶が出ています。 

十分に乾燥してから、1000番のペーパーをあてました。塗装の際に混入した小さな埃などもこの時点で取り除くことができますが、下地に届くまで削ってしまわないよう注意しながらの作業です。

コンパウンドで軽く磨きました。自然な光沢が出て、イイ感じです。 え?初めの写真と余り違わないって? そんなことないんですよ。

ボディに乗せてみました。キュートであります。
 四輪でも二輪でも、私が作るモデルのほとんどは旧車です。ですから、塗装の仕上げに、いわゆるウレタン・クリアーなどをたっぷり吹いて、映り込みが出るまで丹精込めて磨き出すというスタイルをとっていません。時代や車のキャラクターと全く合わないのです。
 特に、今回のトラバントは、30年以上前のお金がない旧東独の大衆車です。チープな素材のボディに、チープな塗装が施されているに過ぎないのです。高級感など欠片もないのです。でも、それこそ手の届く価格で、庶民が普段の足として使うには、必要にして十分だったのでしょう。

2015年2月5日木曜日

1/24 トラバント601 (その4)

ボディのプラ材はふにゃふにゃしておらず、プロポーションもとてもしっかりしています。歪みも変形もありません。なので、パーティングラインや表面の僅かなヨレをヤスリで消してあげるだけ。前後のライト・リムを接着しておいてから、ボディ全体に1000番のペーパーをあてました。
 ほ~ら、もう可愛い。
 因みに、天井はサンルーフではありません。この上に、帽子状の屋根が後から乗っかるんです。
 後から乗っかると言えば、ある友人に、カップ麺の天ぷらは先に入れるか、それとも後から乗せるかと尋ねたことがありました。因みに私は先に入れる派。サクサクしたのがあまり好きじゃないんです。友人曰く、
「乗せない派かな。」
 世の中にそんな人がいるとは思いもよりませんでした。

ボディで唯一の問題は、フロントグリル。ボディ開口部が塞がっています。グリルも抜けておらず、これではエンジンルームに風が入りません。オーバーヒート必至です。
 それにしても、写真が暗いです。光の調節が難しい場所で、安物のコンデジを使いこなす腕がないということでしょう。

ところがこのグリル、網目がきわめて細かい上にモールドも浅いため、裏側から薄々攻撃を加えたとしても、うまく抜ける公算はありません。塗装で表現するしかないのかなぁ。ちと残念です。

2015年2月3日火曜日

1/24 トラバント601 (その3)

 拙ブログも、この投稿で700回を迎えました。だからといって何か出るわけではありません。
  工作は内装に進んでいます。
 シートの座面とドア内張りの一部はベージュのファブリック、シートバックとドア内張り下部やダッシュボードの下部は茶色のフェイク・レザー。ヘッドレストはブラックのプラ材。これは、601s後期型の実車と同じです。
 それにしてもこのRevellのキット、ドアの内張りなどを見ても分かるように、実によく出来ている上、非常に組み易いです。直近過去の2作品がイタレリ製だったこともあって、これまでのところ好感度は大です。

 ペダル類は、ドライブラシで使用感を出しました。また、四輪モデルの定番工作であるシートベルトの受けも自作で設置。
 トラバントって、センターコンソールがないんですね。シフトもコラムだし、助手席に座るガールフレンドとの距離が非常に近いです(ていうか、狭いだけか)。
 
さて、読者のyocchiさんがエンスー的な関心を寄せておられるのもそのはず、トラバント601には、この2スト2気筒エンジンを771ccまでボアアップしたラリー仕様のP800RSが存在します。WRCにも参戦していたとか。
 これ、作ってみたい!!!

2015年2月1日日曜日

USSJ (あられ)

 およそ2年ぶりに、USSJ(ウルトラ・スーパー・スロー・ジョギング)ローマ支部の活動を実施しました。勝手に支部を名乗っているに過ぎませんけど、心の師匠であるYASU会長、いちおうご報告しておきます。
 ただし、今朝のローマは、あられが降る寒い陽気になりました。止むのを待って勇んで出発したものの、溶けない粒々が道路を白く覆っている状態。走りにくいのを理由に、僅か2kmくらいで終了。いいのです。距離やスピードには全くこだわらない、それこそがUSSJの精神なのです。

ときに、霰(あられ)と雹(ひょう)の区別を、今日まで知りませんでした。直径5mm未満があられ、5mm以上がひょう、だそうです。因みに今朝のやつは両方混在していたんですけど、気象庁はこういう状態をどう表現するのでしょう。ついでに、霙(みぞれ)は、雨と雪が混じったもの。へえぇ。