ピラミッドへのアプローチは、ナイル川と並行して走る道を南下し、ダハシュールという小さな村から入ります。肉屋などの小さな店が軒を連ねる田舎の村落を抜けたところに、ピラミッド・エリアの出入りを管理するゲートがあります。ゲートの係官だか警察官だかのおじさんに、どこから来たのか、どこまで行くんだというようなことを聞かれますが、まあ観光以外の目的はないだろうと思っていたら、実は砂漠の中に小規模の油田と、軍のキャンプがあるからなんだと、後になって解りました。
さて、そのクフ王の親父スネフェル王がメンフィスを首都とする第4王朝を納めたのは、4600年前頃。近接した位置になぜ2つのピラミッドを作ったのか、そして何故同じ形でないのか。まだ解明されていません。
ひとつ目は正四角錐ではなく途中から傾斜角が緩くなっているため、「屈折ピラミッド」と呼ばれています。崩れていない部分の表面はつるつるしていて、完成した当時のままですから、盗掘家たちによって石材が剥がされた訳ではありません。
一説には、作り始めてみたものの、傾斜が急すぎて崩壊するおそれがあるという理由で、途中から緩やかな傾斜に設計変更したのではないかと言われているようです。でも、4000年以上昔なのに正確無比を誇るというのがピラミッドの神秘性を最大化していると思っている私には、その節はホンマかいなと疑わしい。何か、もっとちゃんとした理由があって、このような設計になったのではないかと勘繰ってしまいます。
ふたつ目は、「赤のピラミッド」と呼ばれるもの。おそらく素材に赤みを帯びた石が使われているからなのだろうと思いますけど、実際の見た目はまったく赤くありません。高さは屈折ピラミッドと同じ105mですが、底辺が220mと、屈折ピラミッドよりも30mほど長いため、傾斜角も緩く、どっしりと安定しています。そして、どちらも想像していた以上にデカいです。
それは良いとして(良いのか)、スネフェル王はどうして2つのピラミッドを作ったのでしょう。第4王朝はスネフェルからスタートしますが、古代王朝は家単位で変わりますので、スネフェルの親はファラオではありませんから、父のためではないと思われます。では嫁のためか。それも他にあまり例がなさそう。
メンフィスを中心とするナイル川西岸地域は、大小さまざまなピラミッドが実に多く発見されています。そして、未だ発掘されていない遺跡が、砂の下にたくさん存在するであろうと言われています。
「ピラミッドは王の墓ではない」という吉村作治先生の説が、科学的に裏付けられる日がくるのでしょうか。
ダハシュールからの帰り道、となりの車線でのんびり走っていたピックアップ・トラックの荷台には、4頭のラクダが積まれていました。前の2頭がきちんと前を向いている絵が、やけにシュールでした。
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