ノートルダム大聖堂火災のニュースが世界を駆け巡っています。尖塔が焼け落ちる映像は、9.11をいやでも思い出させるインパクトをもって、何とも切ないものを「見せつけられている」印象を強く抱きました。
まるで魂の一部が焼かれるような思いで燃え上がる大聖堂を見つめる人々の表情が、すべてを物語っているようでした。
それもこれも、この大聖堂がパリという人々を魅了してやまない街の景観を象徴する建物の一つであったからであり、もとよりクリスチャン、特に聖母マリアを愛する人々にとって非常に大切な意味を持つ建物だからなのでしょう。ご存知でしょうが、ノートルダム=Notre Dame=Our Woman=私たちの婦人=聖母となる訳です。以前パリに4年間暮らした私は、シテ島に建つこの巨大な聖堂を何度となく訪れましたから、少なからぬ共感を覚えるのです。
さて今回の火災は、工事の電気関係から引火したと報じられているようです。ヒューマン・エラーとはいえ、決して意図したものではなく、こうした事故がときに起きてしまうのは、ある意味防ぎきれないことなのかもしれません。
しかし、歴史を振り返ってみれば、人々は太古の昔から、権力鼓舞のため、あるいは他宗教を否定し排除するため、はたまた部族の対立や愚かな戦争によって、実に多くの大切な宗教施設を破壊してきました。何百年、何千年と人々の心のよりどころとされてきた神の像の顔をも破壊するといった非人間的な行為によって。
神は、そうした人の行いを赦すのでしょうか。それとも、それほどに愚かだからこそ、神の救いと導きを必要とするのでしょうか。ふとそんなことを考えさせられる事件です。
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