実は私には、LAに住む叔母とその家族がいる。LAで叔母に会うのは、私がまだ新婚で子供ができる前、今から約27年前に旅行で訪ねてきて以来だ。一昨日、お互い歳をとったものの当時とそれほど変わらない笑顔で、私の再訪を迎えてくれた。
亡き父の妹である叔母は今から約60年前、日本を代表する航空会社に勤務していた。駐留米国軍人を交えた社内イベントで、丁寧な日本語を話すひとりの軍人と知り合ったそうだ。数年後、浅黒い肌とくるくるカールした髪を持つ赤ん坊を抱いて実家を訪ねると、親から売国奴と叫ばれ、足蹴にされて実家を叩き出されたと言う。子供の父親は黒人だった。
渡米後、裁縫に覚えのあった叔母は、ビバリーヒルズの金持ちを顧客につかみ、ウェディングドレスやパーティドレスを縫って生活費を稼ぎ、3人の息子を育て上げた。この間、日本の家族の誰からの援助もなく、その後も日本国籍を離脱したことが理由で遺産相続さえ配分されなかったそうだ。既に齢80を越える叔母は持ち家を人に賃貸し、年金と家賃収入で犬2匹と共に優雅な隠遁生活、長男はLAPD(ロス市警)を定年まで勤め上げた警察官、次男は著名な企業の幹部、三男はワシントンDCで弁護士として今も現役で働いている。どこからどう見ても立派な家族だ。だが生まれ育った実家から追い払われ、親戚付き合いさえ許されず、祖国を失ってから半世紀以上の間、叔母と米国の家族は日本から断絶されていた。息子たちの体には半分日本人の血が流れ、私と同じDNAを受け継いでいるというのに。
どんな因果か、私がLAにやって来たことによって、断絶された家族が再び接続されようとしている。自身のルーツやファミリーを何より大切なものと捉えるアメリカ人にとって、これ以上のことはないのだろう。私が妹から送られてきた実家の古い写真を見せると、長年堪えてきた涙が叔母の目から自然に溢れてくるのでした。「こっちでの生活で困ったことがあったら何でも言ってね。家族なんだから」。
うん、ありがとう叔母さん。なんなら車1台くらいもらえないかな。
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