私がケニアの首都ナイロビに勤務していたのは25年も前のことだ。ナイロビにいた約3年の間には、長男が生まれ、アメリカ大使館がテロで爆破され、日本人学校の校長先生が金目当ての輩に襲撃され殺害されるという事件もあった。35, 6歳という若い私はまだまだ元気で、週末ともなればいろんな企業の駐在員の方々からゴルフ、テニス、麻雀、カラオケなどにお声がけしてもらい、ひたすら働いて、ひたすら遊んだ。
そんな中でも、ひときわ異色を放つ日本人夫妻がいた。ご主人は、日本で誰もが社名を知っている一流企業を脱サラして、独りケニアに渡ってきた人。スワヒリ語を学び、来る日も明る日も地方の中学校を巡っては、整備などされていないグラウンドを駆ける子供たちを観察し、世界レベルの長距離ランナーとして育つ才能を発掘、仙台育英、山梨学院といった高校や、コニカなどの企業に繋ぐ、いわゆるスポーツ選手ブローカーだ。彼が発掘した選手の中からは、ダグラス・ワキウリや、エリック・ワイナイナといった日本でもお馴染みのメダリストも大勢輩出した。
心ない人からは、「人買い」などと揶揄されることもあったそうだが、彼の動機はひたすら純粋かつ暖かいものだ。ケニアの地方で明日の暮らしさえ保証されない子どもたちが、自分の身体能力一つで数年後にはメダリストにまで成長する。スポーツ界の名声だけでなく、日本の企業にも就職でき、親兄弟たちを十分に養うこともできる。ケニアで食わせてもらっている自分が、こういう形でケニアにお返しできる。とにかくケニアが大好きで、良い意味で化石のように真っ直ぐな人だった。
その人が、80歳を目前に、昨日ナイロビで逝ったと知らされた。老衰。43年連れ添った奥様の手を握ったまま静かに永眠についたと聞いた。ナイロビ生活44年。日頃からケニアに骨を埋めると言っていたご自身の言葉そのままに。
Kさん、あなたにはついに一度もゴルフでかないませんでした。麻雀は私の方が強かったけど、いつもあなたの家で卓を囲んだ時の楽しさと、奥様の作る自家製手打ちラーメンの美味しさは、決して忘れません。何歳になってもお洒落で、いつも麦わらのハットを被り、紺色のブレザーと綿パン、足元はローファーでしたね。ついこないだまで、時折くれるメールをいつも楽しく読んでいましたよ。お疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね。合掌。
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