エジプトの国民食といわれる「コシャリ」を今日、初めて食しました。
位置づけとしては日本でいうところのラーメンか立ち食い蕎麦のようなものかと思いますが、実は歴史はそれほど長くないみたいです。ホントかどうか知りませんけど、インド料理をベースにイタリア人兵士がパスタを混ぜて作ったのが始まりだとか。第一次大戦の頃のことだそうです。
仕事の帰り道、運転手にコシャリが食いたいと言うと、やや考えた後、隣町のコシャリ専門店に車を走らせました。
マカロニのような短いパスタ、スパゲティの切れ端、ヒヨコ豆、レンズ豆、米などを薄味でごった煮した上から、トマトベースのソースやスパイシーなチリソースをかけ、カリカリに揚げたニンニクとオニオンをトッピング。これをぐちゃぐちゃに混ぜて食す。
思いのほか、美味い。そろそろイタリアンが恋しくて仕方がなかったというのもあるっちゃあるのですが、運転手がお勧めするだけのことはありました。まあ2週間に1回程度なら食べても良いかもしれない。しかも一人前とは思えない量なので、がっつり行きたいとき向きです。
明朝からの出張準備のため今日はテイクアウェーにしたので、他にどんなバリエーションがあるのかを見ることは出来ませんでしたが、ちゃんとした店のものでないと「not safety」だと、これは運転手の助言。勿論、お腹にとって安全でないという意味です。従っての高級店ながら、お値段は20エジプト・ポンド、つまり約120円。これまた衝撃的。そして食べきれなかった分は、猫たちがぺろりと平らげてくれました。猫缶よりもはるかに安いし。
日本にもコシャリを出すレストランがあるそうなので、関心のある方は是非一度。
2017年4月19日水曜日
待ちきれなくて、つい
カイロに住み始めて約50日。
引越し荷物を載せた船はおそらくアレキサンドリアの港に着いているのに、まだ配達されません。タンスも本棚も食器棚もまだほとんどからっぽのまま。限られた仕事着と僅かな普段着、プラモやゴルフ道具といった遊び道具もない。夜な夜なネットサーフィンに明け暮れる毎日。
待ちきれなくて、つい、買ってしまいました。
近所の楽器店に飛び込み、出てきたのがこれ。YAMAHAのC70というクラシックギター。ナイロン弦の優しい音色が独りの夜を癒してくれるだろうと、何の知識もないまま値段だけで購入。値切ってもまけてくれませんでしたが18,000円位で買い求め、家に帰ってから調べたところ、市場の相場はもう少しだけ上。それに初心者向けにしては割と評価が高く、どうりでなかなか良い音がします。
何十年も弾いているのに一向に上手くならないし、今日は指が思うように動きませんけど、それも徐々に慣れてくるでしょう。ちょっとだけウィスキーでも飲んじゃおうかなと。
引越し荷物を載せた船はおそらくアレキサンドリアの港に着いているのに、まだ配達されません。タンスも本棚も食器棚もまだほとんどからっぽのまま。限られた仕事着と僅かな普段着、プラモやゴルフ道具といった遊び道具もない。夜な夜なネットサーフィンに明け暮れる毎日。
待ちきれなくて、つい、買ってしまいました。
近所の楽器店に飛び込み、出てきたのがこれ。YAMAHAのC70というクラシックギター。ナイロン弦の優しい音色が独りの夜を癒してくれるだろうと、何の知識もないまま値段だけで購入。値切ってもまけてくれませんでしたが18,000円位で買い求め、家に帰ってから調べたところ、市場の相場はもう少しだけ上。それに初心者向けにしては割と評価が高く、どうりでなかなか良い音がします。
何十年も弾いているのに一向に上手くならないし、今日は指が思うように動きませんけど、それも徐々に慣れてくるでしょう。ちょっとだけウィスキーでも飲んじゃおうかなと。
2017年4月8日土曜日
猫がいる日常
アパートに入ったその日から、猫がそばにいる暮らしが始まりました。
古代エジプトでは、猫をライオンに見立てて崇拝し、バステト女神として神格化していた訳ですから、エジプト人の猫好きは数千年前からということになりましょう。象形文字にもたびたび猫が登場しますね。
さらに、イスラム教においても、猫をこよなく愛でた預言者ムハンマドが「猫への愛は信仰の一側面だ」と言い放ったことから、人々は猫を大切な生き物として扱うようになったとか。猫は信仰上も汚れなき綺麗なものとされていて、それが故にモスクへの侵入も許されているのだそうです。それに対して豚や犬は汚れたものとされていて、だから不浄な豚肉は決して食べないし、イラクなどでは犬を飼っただけでムチ打ちの刑に処されるんだとか。
エジプトから海を渡ってヨーロッパに伝わったとされる猫は、伝染病を媒介するネズミ対策としてもたいそう重宝され、家のペットとして広く根づくことになるわけです。
さて、我が家の猫たち。
もちろん野良です。上述の次第から近所にはいたるところに野良なのか飼われているのか分からない猫たちがうじゃうじゃいるのですけど、主に我が家をテリトリーとしているのは黒トラと茶トラの2匹。私が仕事から帰って来ると、どこからともなく現れて、足にまとわりついてきては、餌をねだります。
郷に入ればなんとかと言いますので、ここはイスラムの教えに従って、私も猫を邪険にしないことにしました。ま、もともと猫好きなんですけどね。
多い時にはこの2匹に加えてさらに2~3匹が、植込みやフェンスの向こうから、わらわらと湧いてきます。ときには、身体が他の猫よりもふた回りほど大きくて人相(猫相)の悪いボスキャラふうの黒ブチも現れ、遠巻きに若い猫たちを威圧していたりします。
「猫缶はけっこう高いので、今日もカリカリだよ」と声をかけても、フガフガと食べるのに忙しくて、聞こえないみたいです。それとも日本語が通じてないだけなのか。
古代エジプトでは、猫をライオンに見立てて崇拝し、バステト女神として神格化していた訳ですから、エジプト人の猫好きは数千年前からということになりましょう。象形文字にもたびたび猫が登場しますね。
さらに、イスラム教においても、猫をこよなく愛でた預言者ムハンマドが「猫への愛は信仰の一側面だ」と言い放ったことから、人々は猫を大切な生き物として扱うようになったとか。猫は信仰上も汚れなき綺麗なものとされていて、それが故にモスクへの侵入も許されているのだそうです。それに対して豚や犬は汚れたものとされていて、だから不浄な豚肉は決して食べないし、イラクなどでは犬を飼っただけでムチ打ちの刑に処されるんだとか。
エジプトから海を渡ってヨーロッパに伝わったとされる猫は、伝染病を媒介するネズミ対策としてもたいそう重宝され、家のペットとして広く根づくことになるわけです。
さて、我が家の猫たち。
もちろん野良です。上述の次第から近所にはいたるところに野良なのか飼われているのか分からない猫たちがうじゃうじゃいるのですけど、主に我が家をテリトリーとしているのは黒トラと茶トラの2匹。私が仕事から帰って来ると、どこからともなく現れて、足にまとわりついてきては、餌をねだります。
多い時にはこの2匹に加えてさらに2~3匹が、植込みやフェンスの向こうから、わらわらと湧いてきます。ときには、身体が他の猫よりもふた回りほど大きくて人相(猫相)の悪いボスキャラふうの黒ブチも現れ、遠巻きに若い猫たちを威圧していたりします。
「猫缶はけっこう高いので、今日もカリカリだよ」と声をかけても、フガフガと食べるのに忙しくて、聞こえないみたいです。それとも日本語が通じてないだけなのか。
2017年4月1日土曜日
寛大な心
年度があらたまって、随分と久方振りのエントリとなりました。エジプトに来てちょうどひと月が経ったのかと、これまでの1か月をぼんやりと思い返す週末。
イスラムの国に暮らし始めて最初に戸惑ったのが、チップと似て非なるバクシーシという習慣。富める者がそうでない者にほどこしを与える「喜捨」という考え。喜んで捨てると書くくらいですから、お金に対する考え方が日本人とは随分と異なります。
まあしかし、とにかくどこへ行っても何をするにしても、常に小銭をポケットに用意しておく必要があります。観光地でスマホやカメラを構えようもんなら、すぐに俺がシャッターを押してやると。はては公共のトイレや駐車場まで。スーパーの駐車場では、ガラガラに空いているスペースにすんなり停めただけなのに、帰り際には「俺が見てやってた」とバクシーシをねだる男がどこからともなく湧いてきます。でも、面倒くさいからとこれを拒んでしまっては、イスラムの教えと文化に従わないことになってしまうのです。
そしてもう一つは、あらゆる場面・局面に通じる「インシャラー」という言葉。意味は、アッラーの神のご意志のままに、ということだそうですが、まあこれが実に万能というか、どんな言い訳にも使えるわけです。
頼んだ仕事が上手くできなくても、約束の時間に来れずに遅刻しても、なんなら買った野菜が痛んでいようとも、すべてインシャラー=大いなる神の意志なのだから、たかだか人間なんぞにはどうしようもないのだと、まあそういうことです。
こうしてみると、エジプト生活のはじめの一歩に共通するキーワードは「寛大さ」ということなのかもしれません。
でもほら、近所の庭の大きなハナミズキが満開です。桜を思い出せよ、インシャラー。と言ってくれているようです。
イスラムの国に暮らし始めて最初に戸惑ったのが、チップと似て非なるバクシーシという習慣。富める者がそうでない者にほどこしを与える「喜捨」という考え。喜んで捨てると書くくらいですから、お金に対する考え方が日本人とは随分と異なります。
まあしかし、とにかくどこへ行っても何をするにしても、常に小銭をポケットに用意しておく必要があります。観光地でスマホやカメラを構えようもんなら、すぐに俺がシャッターを押してやると。はては公共のトイレや駐車場まで。スーパーの駐車場では、ガラガラに空いているスペースにすんなり停めただけなのに、帰り際には「俺が見てやってた」とバクシーシをねだる男がどこからともなく湧いてきます。でも、面倒くさいからとこれを拒んでしまっては、イスラムの教えと文化に従わないことになってしまうのです。
そしてもう一つは、あらゆる場面・局面に通じる「インシャラー」という言葉。意味は、アッラーの神のご意志のままに、ということだそうですが、まあこれが実に万能というか、どんな言い訳にも使えるわけです。
頼んだ仕事が上手くできなくても、約束の時間に来れずに遅刻しても、なんなら買った野菜が痛んでいようとも、すべてインシャラー=大いなる神の意志なのだから、たかだか人間なんぞにはどうしようもないのだと、まあそういうことです。
こうしてみると、エジプト生活のはじめの一歩に共通するキーワードは「寛大さ」ということなのかもしれません。
でもほら、近所の庭の大きなハナミズキが満開です。桜を思い出せよ、インシャラー。と言ってくれているようです。
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