仕事の都合により、今年の夏休みは随分遅い時期になりました。
エジプトに転勤してきてから半年を過ぎた先週、ようやく古代エジプトの都、ルクソールを訪れることができました。
カイロからナイル川を南下すること600km以上、飛行機で約1時間の距離にあるルクソールは、約3500年前にはテーベと呼ばれるエジプトの首都でした。
古代エジプトの歴史は、いわばファラオの歴史。家系(血筋)によって第〇王朝というふうに区切られています。織田家が第10王朝、豊臣家が第11王朝、徳川家が第12王朝などと例えれば解りやすいでしょうか。
ルクソールに残る遺跡は、大きく言えばナイル川東岸の寺と、西岸の墓。歴代のファラオは没すると東岸の神殿で葬式を行い、ミイラにして西岸の墓に埋葬し、いつか訪れる復活を願ったということです。
世界最大の寺であるカルナック神殿や、ライトアップされたルクソール神殿は、まさに息を飲むほどの規模、荘厳さ、美しさでした。圧巻という簡単な言葉ではとても間に合いません。そして、60を超えるファラオの墓が密集する王家の谷も、言葉を失う空気に支配されているようでした。
さて、現存する古代エジプトの遺産の中でも群を抜いて知名度の高いものが、ツタンカーメン王の遺品でしょう。1922年にカーター教授が掘り当てたツタンカーメン王の墓は、王家の谷の第62番目の墓ですが、別のファラオの墓のすぐ真下に位置し、大量の瓦礫に覆われていたため、墓泥棒による盗掘被害を受けることなく、奇跡的に残ったということです。
ツタンカーメンのこの有名な黄金のマスクは現在、カイロの考古学博物館に、墓の中に収納されていた玉座など数々の遺品と共に展示されています。ただし、自身のミイラは王家の谷の墓に今も静かに眠っています。写真撮影が禁じられているのでご紹介できませんが、19歳の青年としても小さな身体でした。
ところで、ツタンカーメン一族は、歴代のファラオを年代順に並べた古代の王命表に、その記載がありません。第18王朝と第19王朝の間にあるべきツタンカーメン一族が、歴史から抹消されてしまっているのです。
というのも、ツタンカーメンの父であるアクナートン王は、最高神アメンに代えて実体を持たない太陽神を崇拝することを民に求め、都をルクソールの北300kmほどの別の地に移してしまった、いわば異端のファラオだったからなのです。
政治や催事を司る神官たちや民の信仰心は、権力だけではそうそう変わるものではありません。アクナートンが変死した後、共同統治者の地位を得て後のファラオとなる妻ネフェリティティもわずか3年で変死、さらに、ネフェリティティとの間にできた子供6人はすべて女の子ということで、下女に産ませた息子ツタンカーメンが僅か6歳にしてファラオに即位したものの、19歳でこれまた変死。最後はネフェリティティの父アイが国を治めたころには、すっかり一族の権力は崩壊していたのでした。
ただし、王命表にその名を刻むことがなかったことが逆に幸いし、探す者もおらず盗掘から守られてきたというのも、歴史の綾だなぁと思わされます。王家の谷の墓守たちは、その昔、盗掘の限りを尽くした墓泥棒の子孫だと聞いて、これまたなんとも皮肉なもんだと感じました。
実はツタンカーメンの話には今なお続きがあって、王家の谷の墓、ツタンカーメンの棺が置かれていた玄室の壁の向こうに空間が続いていることが、最近の調査で分かっています。問題は、世界遺産である玄室の壁に描かれた絵に一切のダメージを与えることなくその背後をどうやって発掘するかということです。
壁の向こうには、クレオパトラと人気を二分するという絶世の美女ネフェリティティの墓があり、ミイラと埋蔵品が眠っているのかもしれないのです。3500年前のロマンは、まだまだ終わっていないのです。
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